訳をするときは誰もが、ペンであれキイボードであれ「書く道具」を手にしているので、訳とは「書くことだ」と思いがち。だが実は、翻訳というのは「読む作業」なのである。
「新訳」はとくにそうだ。翻訳者の新しい目でその作品が読まれなければ、それはただの「言葉をいまふうにした二番煎じ」である。
光文社の古典新訳文庫から、黒原敏行訳の『闇の奥』が出た。これが、すごい。
1890年代、ヨーロッパの白人たちはアフリカに乗り込み、勝手のかぎりをつくしていた。ある貿易会社の「奥地出張所」のただ一人の派遣員クルツは、ここ何年も本社に、極上の象牙を信じがたいほど大量に送ってくる。彼を「天才だ!」と賞賛する社員がいる一方、上層部は募る奇妙さ、不安を隠しきれなくなり、コンゴ奥地までクルツに面会に行く小隊を送り出す。
かくして、地獄めぐりが始まる。
「とにかく、べらぼうなところへ行って、べらぼうなことがしてみたい」という、当時の、そして現代も変わらず人間が持っている、熱にうかされたような気持ち。それを黒原の訳は、ジャングルのむせかえる匂い、暑さとともに、小説に漂わせる。
ここにあらわれているのは「白人至上主義批判」でも「人間の心の闇」でもない。踏み入れたとたん、あまりにすごすぎて、人間であることをマヒさせるほどの圧倒的な熱帯の魔力だ。人間らしさが次々削ぎ落とされ、最後に残った欲望がその魔に呼応したとき、人は神になるのか、それとも狂人か。
読後、『闇の奥』は何一つ終わっちゃいない、という思いを強くする。また、この訳を経た黒原敏行は、クルツ探しの一行のように、決定的なものをその翻訳人生に被っただろうという、うれしいような恐ろしいような予感がする。そのくらい、この『闇の奥』は、「いま生きている小説」となった。
(青山ブックセンター六本木店 間室道子)
出版社:光文社書名:『闇の奥』著者:コンラッド/著 黒原敏行/訳定価:620円(税込み)
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